「いる」のがつらいから「する」
その日の午後、ジュンコさんとのカウンセリングは予定通り行われます。始まってすぐは高校時代の話をするなど和やかなムードでしたが、とつぜん暗転します。虐待家庭に生まれ育ったこと、高校生の頃の妊娠、夫の暴力、離婚、子どもとの別れ・・・そんな話をジュンコさんは一気に語り泣き崩れました。
それから著者はジュンコさんと週1回のペースで、カウンセリングの場を持ち、過去の苦しい話をすることになりますが、やがてジュンコさんはデイケアに来なくなってしまいます。
その原因は、「する」ことを探し、それをこなし過ぎて疲弊していったからでした。要は、過活動になっていたのでした。こうして精神的肉体的にも参ってしまうと、動けなくなり、動けなくなるとただ座って「いる」ということが、ジュンコさんはつらくなったのでした。
ただ、著者は自分にも一因があったと猛省します。大学院で学んだ「心の深い部分に触れる」というセラピーの基礎を著者は実践していましたが、それがむしろあだになってしまった。ジュンコさんとしていたのは「セラピーもどき」だった、と後悔します。
おれは大バカだ。
なぜ彼女が僕に話を聴いてほしいと言ったのか。
それは彼女がデイケアに「いる」のがつらかったからだ。だから、彼女はセラピーもどきではあっても、何か「する」ことが欲しくて僕に相談を持ちかけたのだ。そうすることで、デイケアに踏みとどまろうとしていたのだ。
それなのに、僕は素朴に彼女がカウンセリングを欲しているのだと思ってしまい、「深い」話を聴き出そうとして、彼女を傷つけた。
僕も同じではないか。僕もまた「する」ことがなくて、「いる」のがつらいから、セラピーもどきに逃げ込んだ。そしてその結果、かろうじて安定を保っていた彼女の苦しさに気づかず、状態を悪化させてしまった。
僕はあのとき、カウンセリングもどきなんかをするのではなく、二人でデイケアに「いる」べきだった。
「いる」のがつらくて「する」へ向かおうとする両者の思惑が、悪い形で一致してしまったのでした。
このエピソードは、本書の中でも印象的なものの一つです。しかし、そもそもなぜ著者は「する」と「いる」の対置を見出したのでしょうか?そして、なぜ「いる」を肯定しようとするのか?
本記事で挙げたエピソードは序章も序章です。他にもたくさんのエピソードが本書では綴られ、そうしたエピソードとその裏側に隠された意味について、著者の独特な視点と文体で語られていきます。「いる」の意味について気になった方は、ぜひ目を通してみてはいかがでしょうか?
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