2019年、宝塚市が「就職氷河期世代」に限定した正規職員採用を、全国に先駆け実施し注目を集めました。「就職氷河期世代」とは、現在30代半ばから40代後半とされ、新卒採用時には就職難、その後も雇用の不安定さを経験してきました。また雇用する側にとっては、この世代の人材が手薄になっており、20年以上の時を経て現実的な課題として日本全体で浮き彫りになってきています。2020年には国家公務員の就職氷河期世代に特化した採用試験が行われ、目下、試験は進行している最中(令和2年12月末時点)ですが、ここにも数多くの応募があり採用試験の倍率は約36倍にもなったといわれています。
氷河期世代の人は、今までどのような道のりを歩んできたのでしょうか。そして、これからの就職・転職に向けて、頼れるサポートはあるのでしょうか。今回は宝塚市の就職氷河期世代採用で正規職員となったAさんに、自身の経歴など振り返りながら聞かせていただいたエピソードを紹介します。
就職浪人をするも採用には至らず。アルバイトから始まった社会人人生
今年で46歳となったAさんは、昨年の宝塚市の採用試験を受け、令和2年の1月より正規職員として採用された。これまでにアルバイト、契約社員、正社員など雇用形態はさまざまながら7社を経験してきて、宝塚市の正規職員として採用に至った。大学を卒業したのは90年代の後半で、バブル景気崩壊後の就職氷河期真っ只中だった。当時の就職活動についてAさんはこう振り返る。
「大学4年生で就職活動をしていた時期には、100社近く受けました。そのなかで1社内定をいただきましたが、そこは自分がイメージしていた会社とは少し違ったため、生意気ながら辞退したんです。まあ実際は、自分の理想の仕事に対するイメージ自体が、具体的に定まっていなかったのだと思います。そこで、もう一年だけ就活をがんばってみようと思い、大学には5年半ほど在籍しました。でも結局、正規雇用での就職先は見つからないままでした。」
いわゆる「就職浪人」というようなかたちでAさんは留年を決める。周囲の友人・知人も、簡単には就職先は見つからず、大学院に進学したり、資格を取れる学校にあらためて行ったりしたという。
「ただ、当時の私は資格を取ろうとしたわけでもないので、自分にも甘さがあったと思います。卒業後すぐには仕事に就けずふたつほどアルバイトを経験しました。アルバイトは完全につなぎで、雑貨屋さんの販売などをしていました。でも、非正規ではあるけれどそういう仕事自体は嫌いではありませんでした。そうやってアルバイトをしながら、どこかに正規雇用で就職するチャンスがあれば…と思っていました。卒業から1年が経った頃、たまたま見つけた企業から内定をもらいました。1999〜2000年頃だったので、年代的にも採用状況はどんどん悪くなっていたし、もうこれ以上待ったところで改善はしないだろうと思い、その会社へ入社しました」
「身の程を知らずに大手ばかりを受け、数を打てばどこかには引っかかるんだろうと思っていました。何か自己アピールできるような経験や武器も無いのに、高望みをしてしまっていました。だから、面接は毎回撃沈でした。今振り返れば、何か良いやり方があったかもしれませんが、当時は何もわからぬまま就職活動をしていました。まあそりゃ引っかかるはずありませんよね(笑)。やっぱり自分の甘さが原因だったなと思っています」
とにかく「自分が甘かったと思います」と今でこそ笑って話すが、当時の状況を思えばAさん個人が甘かったから就職できなかった、という話でもないように思える。希望の職種でなかろうと、もう贅沢は言っていられない、とAさんは正規雇用された会社へ就職することにした。最初の会社はコンビニエンスストアのスーパーバイザーだった。
「やっと正社員として就職できたものの、体力的にも精神的にもしんどい環境でした。365日24時間動かないといけなかったり、社内的にもパワハラが横行したりしていました。当時はそういう言葉はなかったですが、今でいう“ブラック企業”ですよね。それでも3年ちょっとは働きましたが、転勤を打診されるタイミングで、この会社でそこまでのモチベーションは続かないと自覚しました。精神的にかなり追い詰められていたのだと思います」
契約社員で給与は上がることも無いまま9年、自分に軸を作らねばと一念発起
その仕事を継続することがもう難しいと思ったAさんは退職し、再び職探しをすることに。次に働く職場が決まってから、退職したのではなく、まず「退職」した。そのため、新しい仕事も見つけるのに約1年を要した。
「他にアルバイトなどもせずに仕事探しはしていましたが、その時も一年くらいブランクがあいてしまいました。当時は実家にいたのでそれが可能でした。29歳の秋頃に1年更新の契約社員として、商業施設の管理業務の仕事に就けました。商業施設のプロモーションやテナントの家賃管理、オーナー企業への報告を毎月していくような仕事内容で、同僚の多くが中途の非正規雇用という環境でした。当時は労働契約法の5年縛りもなく、ずっとその形で働いてしまう人が多く、私も結局9年間そこにいました。正社員だけれどパワハラなどが辛かった前職の環境と比べれば、働きやすかったと感じました。加えて、仕事がそれなりに忙しく他のことを考える余裕が無くて、気がついたら長い年月働いていた、というのが実際のところです。」
仕事内容自体にやりがいや手応えは感じられていたが、業務のなかでさまざまな業種のお客様と接するうち、一抹の不安も覚えるようになったとAさんは当時を振り返る。
「この先自分が職業人としてやっていく時に、軸が無いなと思い始めたんです。仕事を通じたいろいろな人との付き合いのなかで、周りの人達は専門的な知識や資格を増やしていく一方、自分は管理するだけの仕事で、この契約がきれた時に社会でやっていけるのかという心配が出てきました。会社の業績も順調ではないなか、自分にもそういう“強み”がほしいと考え出したのが35〜36歳くらいの時でした。なにせ9年間働いていても一銭たりとも給与が上がることはなかったですし……なんならリーマンショックの頃に一度下がりすらしました。そういうことが重なり、何か機会があれば次を探さないといけないとずっと思っていました。」
30代半ばで自分も何か専門スキルを持たなくてはいけないと感じたAさんは、社労士(社会保険労務士)の受験を決意し、38歳で資格取得に至った。その後すぐに転職活動を始めたわけではなかったが、自分の中にひとつの軸ができたような気がして次の職場を探してみようという気持ちになった。
「資格取得以降も1年半ほどは同じ職場に勤めていましたが、徐々に、もう少し長く安定して働ける職を探してみようと思えてきました。そこから、まさに資格を活かし、社労士を募集していたある法人に転職することができました。」
資格とともに希望をもって転職。しかし現実とのギャップに苦しむことに
労務の面で役立てるとAさんは期待をもってした転職だったが、雇用する側とされる側の板挟みになる。される側の味方でいたいと思ったのに、むしろ労働者に不利な条件を推進せねばならない場面などが多く出てきたことにより、次第に葛藤を抱えるように。資格を取得し、高い理想で就いた職業だったからこそ、Aさんにとっては、理想とのギャップを大きく感じたという。
「会社側にも労働者側にも両方にとって良いようにしたいと思っていましたが、高圧的に言われたりしたこともあったのでかなり疲れてしまいました。
そこで次の仕事を探そうとしたのですが、『転職って年齢だけでこんなに厳しくなるのか』という現実を突きつけられました。面接に呼ばれなくなるんです。その後は社労士の資格そのものを活かすというのでなくとも、就労支援の仕事や、官公庁関連の仕事をしてきました。ただ、それらはあくまで契約期間の定められた非正規雇用でした。」
資格に託した理想とのギャップは知ったものの、雇用される側のためになるような仕事に就くようになったAさん。やはり、自身が「氷河期世代の厳しさ」を痛感してきたからこそ、そうした仕事を希望するようになった。
「そもそも社労士の資格を取ろうと思ったのも“まずは自分自身のための知識をつける”という目的が大きかったんです。それに伴い、自分の仕事もそちら方向にシフトしていきました。自分と同世代で辛い思いをしている人はたくさんいます。ただ、そういう話を同世代と普段から気軽にするということはありませんでした。自分も辛かったから、相手だって質問されるのが辛いのではないかと思っていて……。実際、親しい人のなかでもいまだにしんどい人はたくさんいます。たとえば同窓会などもあまり開かれてなかったらしいんですよね。40歳くらいになってから初めて、『このまえ1回目があったんよ』というのを人づてに聞きました。案内がきたとしても、『そんなの行ける状況じゃない』『今の話をするのも辛いので行かない』という人は多かったのではないかと思います」
やりがいは感じるものの、常に横たわる非正規雇用の不安定さ。それを乗り越えるための契機とは
いくつかの職場を経験してきていたAさんだが、周りの親しい人たちとも自分たち世代の仕事のあり方を共有するのはまだ辛さを感じており、「今もそれは変わらない」という本音も。そんななか、宝塚市の氷河期採用を知ったきっかけは妹さんからの何気ない一言だったという。
「LINEを通じて、妹が『こんなんあるから応募してみたら』と。それが宝塚市の氷河期採用でした。正規雇用の良さを感じつつ、もしかしたら給料が下がるかもしれないとも思いました。でもその前の仕事も、みんな毎年の契約更新時期になると憂鬱になってくるんですよね。『今年は無事に更新されるかな……?』と。当時も非正規だったのでそういう不安が無くなれば精神的にとても救われるだろうとずっと思っていました。当時も公務員でしたが次は正規雇用で、そして市役所で市民の皆さんのために、より細かくお役に立ちたいと希望が持てました。蓋をあけてみると応募者数だけで1800人以上と聞いて驚きましたが、まずはこれにエントリーすることが自分の役目だと思いました。なんというか……”氷河期世代”というものがこうしてやっと取り上げられたんや、ということを再認識しましたし、それに参加するのが自分の第一歩だと思いました。だから、受かる受からない以前に、まず試験会場に行ってみたいと思いました。どんな人たちが受けているのか、というのを知りたかったんです。」
漠然とした不安や悩みを相談できる相手はどこに?
「1800人以上という応募者数のなかでまさか自分が受かるとも思わないし、最初は全く力が入っていなかったかもしれません」と笑って話すAさん。だが、最終面接ではさすがに緊張したそうだ。
今回は、こうしてふとした家族からの紹介で今回の採用を知り、就職に至ったが、これまで職探しをする際にエージェントに登録したり、キャリアコンサルタントに相談したことはあったのだろうか。
「エージェントを使ったこともありましたけど、これまでのキャリアが良く評価されたという実感はありませんでした。実際、年齢のわりにアピールできるキャリアの積み重ねが無かったのも事実です。同じ業種・職種を長い期間極めていればよかったのかもしれませんが、40歳くらいでキャリアの方向を変えるとなるとエージェントさんには難しかったんやろうなと思います。結果的に、自力でなんとか就職希望先を見つけて、たまたまそこに活躍できるフィールドを見つけられたので私は幸運でした。だから、私はエージェントを有効活用できてはおらず、キャリアコンサルタントへの相談もしたことはなかったですね。前職の時に仕事上でその名前を知るまでは、キャリアコンサルタントの存在自体知りませんでした。ただ、数年前からキャリアコンサルタントが国家資格になったことで今、厚生労働省がどんどんと制度を整えているところかなと思います。そして、キャリア相談がオンラインでできるというのも、間口が広がって良いと思います。そういう制度・サービスがあるんやってことを知るだけで助かる人はかなりいると思います。」
Aさんは、仕事の辛さや今後について家族には多少話していたというが、「家族は、心配はしてくれるが、キャリアの専門家ではない」と話す。
「今回のこの募集を教えてくれたのはたまたまうちの妹でした。『何か良い仕事ないかな?』みたいな話は家族とはしますが、就職や転職の専門家でもない人が具体的に何かアドバイスができるのかといえば難しいですよね。心配はしてくれるんですけど(苦笑)。とにかく『正社員をさがしなよ』というような話になりがちなので、それに疲れているという求職者も多いのではないかと思います。そういう意味では、キャリアコンサルタントなら、求職者の心理面も含めいろいろケアをしてくれると思います。ただ、キャリアコンサルタントが具体的に何をしてくれるのかを知っている人はまだまだ少ないはずなので、もっと知られてほしいし、いろんな人が活用できたらいいですよね。」
氷河期世代の辛さを語ること自体が、辛く惨めなのでなかなか共有が困難
「キャリアチェンジの間の“仕事を探している時間”を単にブランクとしてみなされてしまう現状はなかなか厳しいし、就職氷河期に社会へ出た人々は常にそういった辛さ、惨めさにも晒されてきました」とAさんは自身の経験とともにこの二十数年間を振り返る。
「だからあまり『氷河期に社会へ出たからこんなに辛かったですよ』みたいなことを、アピールしたことはありませんし、そもそもアピール材料になんてならないですよね。だから、ある一定の年齢以降は、自分が氷河期世代であることについて『引きずっていてもしょうがない』と思うようにしました。『どんな形でも、誰かの役に立ちながら生きていきたい』と思うようになり、氷河期どうこうということは考えなくなりました。それよりも『どうやって前向きに生きていけるか』が大切です。また、資格そのものが肩書きになっていなくても、資格取得で得た知識が現場で役立ってもいたので、『ああ、こういう風に活かせばなんとかなんねんな』というように踏ん切りはついてきました。」
資格や家族のすすめがあったからこその現在。より気軽に他者へアドバイスや助けを求められるような環境作りに携われたら
一方で、現在も望む仕事に就けていない人々も多い世の中、市役所という場で自分にはどういった関わり合いができるのか。そういったことを日々考えながらAさんは宝塚市に着任してからの一年を過ごしてきた。
「何か、自分の経験してきたことをふまえて、お役に立てるようになれたらと思います。入職してすぐに新型コロナウイルスが発生してしまったので、2020年はそこまで動けませんでした。みるみる状況が悪くなり、お店なども閉めざるをえなくなっているのを目の当たりにするうちに、行政に何ができるんやろうと考えました。どんどん出てくる市民の困りごとのニーズに対応できる相談窓口が追いついていないことを聞くたびに、自分ももっと働かなくてはと思います。」
お話を聞かせてもらうなかで、何度も「自分が甘くて…」という言葉が出てくるのが印象的だったAさん。自分が今置かれている環境への自己責任と、もっと役に立って認められ続けなければ仕事が無くなってしまうという焦りに苛まれてきた人はきっとAさんだけではありません。
Aさんは、取りこぼされてしまう側の苦しみが理解できるからこそ、彼らのニーズを拾い上げることができるのだと思いました。「もしかしたらこの人はこういうところで苦しんでいるかもしれない」ということを察知する力を(氷河期世代の方々は)持っているのだと感じました。